著作 

笠原 祐樹  

 
杏奈

            

 「…あんたは先入観があるか?」僕を自宅のリビングに通すと開口一番にその老人は言いました。

 「突然何ですか?」

 「先入観があるかと聞いている」

 「先入観、ですか…人間誰しもある程度は持っているものだとは思いますが…」

 「じゃあ帰りなさい」

 「はい?えっと…どういうことでしょうか?」

 「あんたに話しても時間の無駄だ」

 「ちょっと待ってください。先日、今日の取材のことはお伝えしたはずです。突然どうしたんですか?」

 「あんたの目を見れば分かる。あんたはわしの話を絶対に信じない」

 「信じない?」

 「あんたには真実は見えんよ」

 どうしてこんなことになったのだろう?

 その頑固な老人を前にして、僕はここに来るまでのことを妙に冷静に振り返っていました。

 

 大学を卒業して雑誌編集社に就職してから半年。僕は「祖父と孫」というテーマの記事を担当することになりました。それは初めて任された大きな仕事でした。右も左も分からないまま取材に追われ、その後一か月は寝る間もないほど忙しい毎日でした。取材した内容を少しずつまとめ、ようやく形になりかけたのがつい一週間前でした。

 そんな時、いつもお世話になっている三つ上の先輩に言われました。

 「おまえ来週取材に行ってこい」

 「取材ですか?」

 「そうだ。ある老人から話を聞いてこい」

 「もう充分記事にはなってますが」

 「これで最後だ」

 「これ以上の取材は必要ないと思いますが…」

 「いいから行ってこい。この老人、普通じゃないから」

 「普通じゃない?どういうことですか?」

 「行けば分かる」

 先輩はそれ以上何も教えてくれませんでした。取材はもう必要なかったのですが、先輩にそう言われると行かないわけにはいきません。僕は渋々「普通じゃない老人」に会いに行くことにしました。ただでさえ忙しいのにさらに仕事を増やされたのです。正直、迷惑以外の何でもありませんでした。

 

 普通じゃないってただの頑固じじいってこと?

 わざわざ来る必要なかったじゃないかと心底先輩を恨み、イライラしながら僕は老人に言いました。「僕もプロのライターのはしくれです。真実か真実じゃないか、その見極めくらいはできる自信があります」

 僕がそう言うと老人はじっと僕の目を見つめました。老人は明らかに僕のことを値踏みしていました。

 「プロのライターが嫌々取材に来るとはな」嘲るように老人は言いました。

 「嫌々だなんて、そんなことはありません」

 「悪いことは言わん。帰りなさい。あんたにはこの取材は無理だ」

 頭にきたので本当に帰ってやろうかと思いましたが、仕事ですから手ぶらで帰るわけにはいきません。

 「無理かどうかはやってみないと分からないじゃないですか。…えっと…先入観ですよね?当然ありますよ。人間ですから。真実?そんなもの、信じたものが真実に決まってるじゃないですか」

 無理やりスケジュールを確保してここまで来たのに、値踏みされたあげく帰れと言われ、取材相手には絶対にやってはいけないことなのですが、つい感情が表に出てしまいました。それほど僕は頭にきていたのです。

 すると老人は声のトーンを落とし、ぼそっと言いました。「信じたものが真実、か…」 

 老人は家の中を見回していました。何かと思い僕も見ましたが、特に何もありません。しばらくすると、頑固そうに力の入った目はすっと穏やかな瞳に変わりました。

 「もう何年も前の話だ」それまでとは人が変わったと思えるほど弱々しい声で老人は言いました。「杏奈はもういない」

 僕は急いで録音機のスイッチを押しました。「杏奈さん…お孫さんですか?」

 「そうだ。杏奈はいなくなった」

 「行方不明、ということでしょうか?であれば事件の可能性が…」

 「そうじゃない」

 「ではどういうことですか?」

 「ここにはいない。でもいる」

 「それは…心の中にいる、という類ですか?」

 「違う」

 まるで話の方向が見えませんでしたが、せっかく始まった話に水を差すわけにはいきません。「ここにはいないけれど、いる、と?」

 「そうだ」

 「…杏奈さんは何歳ですか?」

 「当時十歳だ」

 「十歳の少女がいなくなった。事件性はなく、ここではないどこかにいる、ということですか?」

 「少し違う」

 「少し、とは?」

 「ここではないどこかにいるわけじゃない」

 「ではどこにいるのですか?」

 「この家だ」

 人を馬鹿にしているのかと一瞬思いましたが、老人は真剣でした。しかたなく僕は話を合わせました。

 「ここにはいないのに家の中にいるのですか?」

 「そうだ」

 「心の中にいるわけではなく、実際にここにいるということですか?」

 「そうだ」

 「でもいない」

 「そうだ」

 頑固、というより頭がおかしいのではないかと思いましたが、僕はなんとか冷静を装いました。疑ってかかれば老人はきっと何も話さなくなると思ったからです。「…事件ではないとすると杏奈さんは自分の意思でいなくなったということですよね?」

 「そうだ」

 頭の中を整理しながら僕は質問続けました。

 「何かしらの明確な理由によって杏奈さんはいなくなった。それでいてなお、この家に存在しているということでしょうか?」

 「そうだ」

 「その理由とは何なのでしょう?」

 「…あんた…何か飲まないか?」ふと老人は言いました。

 この瞬間僕は気付きました。その理由が安易には説明できないことを。その理由こそが、老人が最初に言った「先入観」に繋がっていくことを。

 「水でけっこうです」

 「ビールはどうだ?」

 ビール?

 「いや、あの仕事中なので」

 「いいだろう別に」

 取材が終わった後は録音した内容を文章にする作業があるので取材中に飲むなんて言語道断です。にも関わらず僕は言いました。「いただきます」

 なぜか一緒に飲んだ方がいい。そんな気がしたのです。

 老人は何も言わず瓶ビールと栓抜きとグラスを二つ持ってきてテーブルに置きました。僕も何も言わず、蓋を開け老人のグラスと僕のグラスにビールを注ぎました。僕はいただきますとだけ言って一口飲み、老人はほぼ一気に飲み干し、二杯目を注いでから話し出しました。

 「杏奈は裁縫が得意な子だった。ミシンよりも素早く正確に裁縫ができた」

 「十歳で裁縫ですか?それは母親の影響でしょうか?」

 老人は一瞬顔をしかめました。「…母親…か。わしの娘は生まれて間もない杏奈をわしに預けた。それから間もなくして死んだよ。病気でな」

 「父親は?」

 「一度も見たことがないな」

 「…失礼しました」

 「ばあさんは杏奈が生まれる前に死んでたしな。なのでわしと杏奈はこの家で二人だけで暮らしていた。むろんわしが裁縫なんか教えられるわけがない。なぜ杏奈が裁縫ができたのかはわしも知らん」

 「はい」

 「杏奈は控えめな性格でな。あまり外に出たがらなかった。いつも部屋に閉じこもって何かをしていた。何か欲しいものがあるかと聞くといつも人形を欲しがった。だからできる限りわしは人形を買ってやった」

 気付くと僕のグラスも空になっていました。僕はごく自然に二杯目をつぎました。

 「杏奈は妙に部屋の様子を覗かれるのを嫌がった。絶対に覗くなと、よくわしにきつく注意したよ」

 「十歳でプライバシーですか?」

 「さあな。覗くなと言われれば、わしも覗かん。きっと買ってやった人形を部屋で直したりして裁縫を覚えたんだろうな。いつしか一つ、また一つと杏奈の部屋ではなく家の至る場所に人形が置かれるようになった」

 「家の至る場所に?部屋に置ききれないほどの数を買ってあげたのですか?」

 「まさか。それほどじゃない。妙なことに家中に置いてある人形をよく見ると、買った覚えがないものがまざっていた」

 「買っていない人形?」

 「むろんわしが買った人形もあった。だが様子は違っていた。買ったままではなく手が加えられていた。例えば髪型が変わっていたりな」

 「それは杏奈さんが?」

 「わしがやるように見えるか?」老人は軽く笑いながら言いました。

 「いえ。見えませんね」僕も笑って言いました。

 「杏奈は自分の好きなように人形の姿を変えたんだろう。姿形を変えたもの、初めて見るもの、それらは日に日に数を増やしていった」少し間を置いてから老人は言いました。「杏奈が新しい人形を自分で作っていたんだ」

 「人形をゼロから作ったのですか?それはすごい」

 「すごいなんてもんじゃない。十歳の女の子が誰にも何も聞かず商品と区別がつかないほどの人形を一人で作ってたんだ。しかも和、洋、問わず世界中の人形をだ。それも一つや二つじゃない。百体以上だ」

 「百体以上?」僕は家の中を眺め、百体の人形が至る所に置いてあることを想像してみました。おびただしい数の日本人形や西洋人形がそこかしこに立っている…想像しただけで不気味でした。

 「気味が悪いと思わんか?」

 「正直、そう思います」

 「そうだろ?わしも気味が悪くてな」老人も僕と同様周りを眺めていました。「初めは杏奈が楽しいなら好きにさせようと思っていた。だが、さすがに十体、二十体ともなると、異常に思えてな。増え続ける人形を見ながらわしは杏奈に聞いた。おまえ、これをどうしたんだ、と」

 僕が唾を飲み込む音が妙に大きく聞こえました。

 「杏奈は言った。<杏奈が作ったの。おじいちゃん、これね。きっと高いお金で買ってくれる人がたくさんいるよ>」

 「買ってくれる人?」

 「さらに杏奈は言った。<だからおじいちゃん。これを売ったお金でもっと杏奈にお人形さんを買ってきて。杏奈、これからもたくさんお人形さん作るから>と。杏奈は買ってきた人形を素材にして新しい人形を作っていたんだ」

 この時、僕は小さな人形職人の話に完全に引き込まれていました。最初からかわいい孫についての愛情話を期待してたわけではありませんが、ここまで妙な話とは思っていませんでした。

 「単なる趣味とは思えませんね。そこまでする杏奈さんの目的は何だったのですか?」

 「…目的、か…」

 それまでテンポよく続けられていた会話が途端に歯切れが悪くなりました。

 「どうしたのです?」心配になって僕は言いました。

 「取材のテーマは祖父と孫、だったな?」

 「はい」

 「じゃあ、あんたに謝らなければいかん」

 「何をです?」

 「杏奈はわしの孫じゃない」

 「はい?」

 「実の孫じゃない」

 「娘さんのお子さんじゃないのですか?」

 「違う」

 「確か生まれて間もない杏奈さんを娘さんが預けに来たとさっき…」

 「それはそうだ。ただし娘の子じゃない」

 「では杏奈さんは誰の子だったのですか?」

 「分からん」

 「分からんって…ではあなたは血が繋がっていない女の子、しかも素性が分からない女の子を十歳まで育てていた、ということですか?」

 「そうだ」

 「どうしてですか?」

 「血は繋がっていない。だから育てない。そうするべきだったと言いたいのか?」

 「いえ。そういうことでは…」

 「血は繋がっていない。でも杏奈はわしの孫だ」

 正直、この時僕は仕事ではなく純粋な興味で話を聞いていました。老人の孫だろうと何だろうと、この杏奈という少女自体に強く惹かれていたのです。

 「こちらとしては何の問題もありません。話を続けてください。杏奈さんの目的は何だったのですか?」

 「恩返し、らしい」

 「恩返し?」

 「わしに対してな。素性が分からない自分を育ててくれてありがとう、ということらしい」

 「まさか…杏奈さんは自分があなたの孫じゃないことを知っていたのですか?」

 「知っていたも何も杏奈自身がわしに教えてくれたんだ」

 一瞬混乱し、話が理解できませんでした。

 「ちょっと待ってください。生まれて間もない頃ここに連れてこられたんですよね?どうやって杏奈さんは…」

 「杏奈は言った。<杏奈、おじいちゃんの孫じゃないの。ごめんなさい>とな」

 「どうして…」

 「わしの娘は杏奈を抱きかかえて現れ、わしに杏奈を預けて何も言わずどこかに消えてしまった。なぜ娘が杏奈を抱いていたのか、それすらわしには分からん」

 僕は何も言えませんでした。

 「不思議なもんでな。そんな事実を知っても愛情というものは一切変わらないもんだ。いや、むしろ深くなったと言っていい。むろん初めは何も知らず育てていたんだが、事実を、しかも杏奈の口からそれを聞くと、実の孫以上の孫に思えてならなかった。なぜ杏奈が自分の生い立ちを知っていたのか?そんなことも、血の繋がりも、わしにはどうでもよかった。杏奈はわしの孫だ。だからそんなことを知っても何かが変わるなんてことはなかった。わしらは幸せに静かに暮らしていた」

 そう話す老人にはそれまでの頑固さはまるで見当たりませんでした。家族はすでになく、幸せだった頃の思い出に浸る老人。それはあまりにわびしく、切ないものでした。

 「実の家族以上の愛情を持って育ててくれたあなたに対して恩返しがしたい。それが杏奈さんの人形作りに込められた想いだったのですね」

 「杏奈はやさしい子だった」

 「杏奈さんは実の両親のことは知っていたのでしょうか?」」

 「さあな。わしの前で本当の家族の話をするほど、杏奈は気が利かない子じゃない。少なくとも杏奈にとっての祖父はわしだった。そういうことでいいじゃないか」

 僕は失言をしてしまったことを悔やみました。「失礼しました。おっしゃるとおりです。それで…その杏奈さんの頼みはどうしたのですか?実行されたのですか?」

 「ああ」

 「売れましたか?」

 「驚くような高値でな。それを元手にして新しい人形を買ってやった」

 「杏奈さんの人形はそんなに素晴らしい出来だったのですか?」

 「出来が素晴らしいのはもちろんだが…」そう言ってから老人は少し言葉を探していました。「ありきたりな言い方だが、魂が込められていた」

 「魂?」

 「そうだ。魂だ。生きているような人形。表情豊かで、雰囲気も人間のように一体一体が違った」

 「良い人形はよくそういった評価をされますね」

 「杏奈の場合は…」

 その後ぴたっと老人は口を閉じてしまいました。いつの間にか瓶ビールも二人のグラスも空になっていたので、老人は冷蔵庫からまたビールを持ってきて二つのグラスに注ぎました。

 「杏奈の場合は、言葉通りのそれだった」重い口調で老人は言いました。

 「とおっしゃいますと?」

 「魂を人形に込めていた。自分を削り、自分を人形に込めた」

 「それほど気持ちを込めて作っていたのですね?」

 「違う。そうじゃない。言葉通りと言ったろう。本当に込めていたんだ。自分の魂を。自分自身を人形に分け与えていたんだ」

 「自分自身を人形に?」

 「杏奈が作る。それを売る。新しいものを買い、杏奈に渡す。それをしばらく続けていたんだ。すると、ある時ふと気付いた。杏奈の様子がおかしいことに。顔は青ざめ、やつれ、体もみるみるうちに細くなっていった」

 「それは…その…単純に作業による疲労では?」

 「あんた、テレビや映画で、人間が何かに養分を吸い取られミイラ化する場面を見たことあるか?最後には骨と皮だけになるおぞましい姿だ。知ってるか?」

 「映画では見たことはありますが…」

 「まさにあれだ」

 「そんな…まさか…」

 「つまり人形は杏奈自身とも呼べるものだった」

 「…そんなことって…」」

 「そうして徐々に人形を作るペースが遅れていった。最終的に百体以上あった人形は日に日になくなっていった。わしは言った。杏奈、もういいから無理はするな、と。だが杏奈はもう少しがんばれるから置いてある人形を売ってきて、としか言わなかった」

 僕にももちろん先入観はあります。でもなぜでしょうか。自分自身を人形に込め、徐々にミイラ化していく少女を僕は生々しいほどに想像できたのです。この場所で確かにそれは起きた。僕はそう感じました。これはもう直観としか言いようがありません。

 「わしがどんなに止めても杏奈は売ってきてとしか言わない。しかたなくわしは売った。そうしてるうちに家の中の人形はなくなった」そう言うと老人はまた家の中を眺めました。

 「杏奈は明らかに様子がおかしかった。最後の頃はかつての杏奈とは別人だった。もう見ていられないほどにひどかった。そんな杏奈が聞き取れないくらい小さな弱々しい声で言った。<おじいちゃん、お金貯まった?>」

 いつの間にか僕は泣いていました。

 「わしは言った。お金はたくさんあるから人形作りはもうやめなさいと。すると杏奈は言った。<ごめんね、おじいちゃん。杏奈もうあと一体しか作れないの>」

 僕には何も言うことができませんでした。

 「<杏奈の最後の人形、それもきちんと高いお金で売ってね。杏奈、おじいちゃんに恩返しがしたいの。だからお金たくさん貯めて、幸せになってね>杏奈はそう言ってそのまま部屋にこもった。わしは部屋のドアを開けようとした。だがドアはどうしても開かなかった。しばらくして開いた時、そこにいたのは杏奈ではなく、一体の人形だった」

 老人の言葉は力強く、それでいて優しさに溢れていました。その態度は気丈でした。誰にも理解できないような体験をし、最も大事な存在をなくしながらも、今なお孫を側に感じている。それがひしひしと伝わってきました。確かに老人が初めに言ったとおりだったのです。ここにはいない。でもいる。僕はそれをようやく理解し、恥ずかしげもなく、ただただ泣いていました。

 その後沈黙が続きました。無言のまましばらく二人はビールを飲んでいました。老人はぼんやりと家の中を見回し、思い出に浸っているようでした。

 「杏奈の最後の人形はまだ部屋に置いてある」唐突に老人は言いました。

 「…売らなかったのですか?」

 「当然だ」老人は立ち上がって言いました。「見るか?」

 「いいんですか?」

 「信じたものが真実なんだろ?」

 人間が魂を作品に込める。芸術家や職人はよくそう言われますが、はたして命を落とした人間がいたでしょうか?いや、彼女の場合、命を落とした、というのも語弊があります。命を移しかえた、とでも言いましょうか。彼女は自分そのものを人形に宿したのです。そんな人形をこれから見る…そう思うとじわりと粘着質な汗が体にまとわりつきました。

 彼女の部屋に入ると机の上に一体の日本人形がありました。

 「これが最後の人形…杏奈だ」

 杏奈と呼ばれた見事な日本人形の「それ」は確かに生きているように見えました。呼吸して、表情をくるくると変え、体温さえ感じられるようでした。僕が「それ」を見つめると目が合ったような気がしました。でも不思議と恐ろしさはなく、むしろ温かさを感じました。

 「別に触ってもかみついたりしないぞ」老人は「それ」の髪をなでながら言いました。

 「知ってますか?最近はむやみに女性に触るとセクハラって訴えられるんですよ」僕はまた涙を流していました。泣かずにはいられませんでした。

 「それはまずいな」老人はそれまで見たことない表情をしていました。そこに込められているのは単なる悲しみだけではないようでした。「あんた。わしの話を信じるのか?」

 「はい」

 「先入観ないじゃないか」

 「あったはずなんですけどね」かろうじて笑いながら僕は言いました。

 

 その後僕は改めてこの話を本当に記事にしていいのか、老人に尋ねました。

 「その為にあんたはここに来たんだろう?かまわんよ。どうせ誰も信じん」

 「僕は公表するべきではないと思っています」

 「なぜだ?」

 「この思い出は大事にしまっておくべきだと思います」

 「あんたもプロなんだろ?だったら個人の感情抜きで仕事しないといけないんじゃないのか?」

 まさかこの老人にそう言われるとは思ってもいませんでした。「…おっしゃるとおりです。ですが…」

 「いいんだ。好きに書けばいい。終わった話だ。それに誰が信じようと信じまいと、杏奈はいなくなり、でもここにいる。世の中にはこういったことがあるんだ。真実とは思えないようなことも起こり得る。あんたはそれを信じた。ならばあんたにとって、これは真実だ。真実を記事にして伝える。それがあんたの仕事だろう。もしかしたら、雑誌が飛ぶように売れるかもしれんぞ」

 

 社に戻り録音したものをイヤホンで聞いていると先輩が声をかけてきました。「普通じゃなかっただろ?」

 「…はい。もしかして知ってたんですか?」

 「ああ。知ってた」

 「どうして知ってたんですか?」

 「俺もやったんだよ」

 「何をですか?」

 「取材」

 「あの老人にですか?」

 「ああ。俺も先輩から命令されてな」

 「じゃあどうしてまた僕を行かせたんです?」

 「おまえが記事にするのかしないのか。あの話をどう判断するのか見たくてな」

 「するかしないかって…先輩が記事にしてたらそもそもできないじゃないですか」

 「俺は取材したとは言ったけど記事にしたとは言ってないぞ。まあ、俺の話はいい。おまえ、どうする?記事にするか?」

 「……しませんよ」

 「しないのか?」

 「あんな話…できませんよ…辛すぎます…」

 「おまえ信じたんだ」

 「当然です。…確かに異常な話でしたけど、作り話には到底思えません」

 「少女が魂込めて人形作って、最後は自分が人形になっちゃったって?もはやオカルトだぞあれ」

 「信じます。少なくとも僕にとっては真実です」

 「じゃあなおさら記事にするべきなんじゃないのか?俺達の仕事は真実を世間に伝えることだ」

 「それでも僕は公表するつもりはありません」

 「どうしてだ?」

 「確かにあまりに異常な話なので、もし記事にしたら話題になるかもしれません。雑誌も売れるかもしれません。もちろん信じない人もたくさんいるでしょうけど。…あの話…杏奈ちゃんは昔も今も実際に老人の側にいます。人とか人形とか、そんなこと関係なく、彼女はあの家に今もいるんです。それを安易に記事にするのは、ライター以前に人として間違ってると思います。心に土足であがるような真似、僕は嫌です」

 「おまえ、もしこれが話題になったら社内評価が一気にあがるんだぞ」

 「かもしれません。でもこれは、僕を信じて話してくれた老人に対して、僕なりの恩返しなんです。あの話は老人が胸の奥で大切にしまっておくべきものです。だから僕も大事にしまっておきます。…何というか…愛とか、真実とか、先入観とか…あの老人からいろんなことを教わった気がします」

 「そうか…」

 「はい」

 「それを聞いたらじいさん喜ぶぞ」

 「どうでしょう。老人は、個人の感情抜きで仕事をしろと言ってました。もしかしたら、ライター失格だと怒られるかもしれません。でもいいんです。仕事より大事なものが世の中にはありますから」

 「おまえがそう言ってくれて安心したよ」

 「先輩も記事にはしなかったんですか?」

 「俺もしなかったよ」

 「じゃあ先輩も僕と同じ気持ちだったんですね?」

 「いや、違う」先輩はにやりと笑いました。

 「じゃあどうしてですか?」

 「俺な、実は知ってたんだよ」

 「何をです?」

 「うちにはな、新入社員が本当に大事なものを見極めるための、まあいわば通過儀式みたいなものがあるんだよ。俺は取材行く前にすでにそれを知ってたんだ」

 「通過儀式?」

 「そうだ。話題になりそうなもの、珍しいもの、ルール無用で何でもかんでも記事にするのは間違っている。その儀式を経て、真に大事なものは何なのか、よく見極めろってことだ。だから初めてでかい仕事をやる新人には、あのじいさんのとこに行ってもらうことになってる」

 「はあ。まあ、あの、何の話かよく分かりませんが」

 「俺達の仕事はいい記事を書いて、雑誌を売ること。それは確かにそうだ。でも分別をなくしちゃいけない」

 「ええ」

 「おまえはじいさんを信じた。なのに記事にはしない。さらに恩返しとまで言った。それはおまえが分別と感性を持ってる証拠だ。合格どころか百点満点だよ」

 「は?」

 「あれな、全部嘘」

 「はい?」

 先輩は僕の肩をポンとやさしく叩き、耳元で囁きました。

 「あのじいさん、うちの社員なんだ」

 

 

 

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