著作 

笠原 祐樹            

             
モンキーアンドシザーズ

 

 台風が近づいていることもあり、その夜はひどい天気だった。平日の夜に記録的な強風と豪雨。客足が鈍くなるのも無理はない。バー「モンキーアンドシザーズ」のマスターは客が一人もいない店内でグラスを磨いていた。古き良きアメリカを彷彿させる内装と控えめに流れ続ける六十年代の洋楽は、荒れた天気とは裏腹に店内の雰囲気を柔らかく丸めている。

 銀座のとある雑居ビルの地下にある「モンキーアンドシザーズ」は知る人ぞ知る隠れた人気店だ。場所柄、高額で敷居も高いバーが多い中、その店は価格も雰囲気も庶民的で、なによりマスターの穏やかな性格が客を呼んでいた。四十代半ばのマスターは多少白髪交じりではあったが、髪は長く後ろで一つに束ね、顔つきは精悍、体型も細身で長身と、とても四十代には見えなかった。バーテンダーとして黒のベストを着ているとファッション誌に載りそうなほどの容姿で、大いに女性客をにぎわせた。こじんまりとした店内は十人もいれば満席だったが、週末になると立ってでも一杯飲みたいという客が殺到した。

 そんな「モンキーアンドシザーズ」にもその日は真夜中までまったく客が来なかった。今夜はもう店じまいにしよう。マスターは店内の清掃を始めた。

 「まだ開いてますか?」

 マスターが客席のテーブルを拭いていると、びしょ濡れになった女が入ってきた。曲がった傘が台風の大きさを物語っていた。「雨も風も強くて傘が壊れちゃった」

 「もちろん開いてます。こちらへどうぞ」マスターはカウンターにコースターとハンドタオルを置いた。「いらっしゃいませ」

 「ありがとう」女はタオルで濡れた髪や服を拭きながら言った。

 「何にしましょう?」

 「ジントニックを」

 「かしこまりました」

 女は服装や化粧の仕方から、品の良さがうかがえた。控えめで主張せず、それでいて顔だちは整っていた。どうやら二十代半ばのようだが、落ち着いたその仕草や雰囲気は三十代にも五十代にも見えた。

 タオルをカウンターに置き、女はタバコに火をつけた。「電車が止まってて帰れないの。困ったものね」

 「風邪をひかないようにお気をつけください」マスターはグラスにジンを注ぎながら言った。「温かいものもお出ししましょうか?」

 「いえ、大丈夫」

 「天災には敵いませんね」

 「電車も、バーも、ね」

 「おっしゃるとおりです」そう言ってマスターはジントニックを女の前に置いた。

 「ありがとう」女は一口飲んだ。「おいしい」

 「ありがとうございます」

 「今夜は私以外誰も来なさそうね」

 「ええ」

 「今夜は仕事はもう終わりにしてマスターも一杯どう?ごちそうするわ」

 マスターは外の雨音に耳を傾けてから言った。「そうですね。ありがとうございます。お言葉に甘えていただきます」

 マスターは深々と頭を下げ、バーボンのオンザロックを作り、女にグラスを向けた。「いただきます」

 「銀座に取り残された人たちに」

 二人がグラスを合わせると、カチャンと店内に音が響いた。「こんないいお店見つけられたから乱暴な天気に感謝しなくちゃ」

 「恐縮です」コースターにグラスを置いてマスターは言った。

 「素敵なお店ね」

 「ありがとうございます」

 「お店の名前が気になってつい入っちゃったの。何か意味があるのかしら?」

 「いえ。特に意味はありません。思いつきです」マスターはもう一口バーボンを飲んだ。

 「猿と鋏。マスター、センスあるわ」

 「ありがとうございます」

 その後二人はしばらく無言だった。店内でも分かるほど雨風はさらに強くなっていた。マスターはグラスを磨きながら時折バーボンを飲み、女はタバコを吸いながら、浮かんでは消えるジントニックの泡をじっと見つめていた。

 「猿と鋏で思い出した。マスター、猿カニ合戦って知ってるでしょ?」唐突に女が言った。

 「ええ。昔話にはそんなに詳しくはありませんが」

 「猿とカニがおにぎりと柿の種を交換して、その後猿が柿を一人占めするために蟹を殺す。その復讐を息子がする話」

 「はい。存じております」

 「あれね、本当は違うのよ」

 「どういうことでしょう?」

 女はちらっと空になったグラスに目を向けた。「マスターも」

 「かしこまりました。いただきます」

 マスターはジントニックとバーボンを作り始めた。

 「本当は、といっても私がこの話を信じてるだけなんだけど。少し長くなるけど話してもいいかしら?」

 「もう店は閉まっております。ごゆっくりどうぞ」

 「それと音楽止めてもらってもいい?きっと話に合わないと思うから」

 「かしこまりました」マスターは店内のステレオの電源を切った。

 「遠い遠い昔、あるところにカニイとチュウバチという女二人とクリヤマ、ウスキ、サルタという男三人、計五人の男女がいた。この五人は幼馴染で、大人になってからも仲が良かった。カニイは内気な性格だったけど誰もが認める美人でどこに行っても男たちから愛された。チュウバチは美人じゃなかったけど、性格が明るく、男女問わず好かれた。クリヤマはリーダーシップがあり頼れるタイプ。ウスキはやさしくのんびりとして、サルタは陽気で場を和ますムードメーカーだった」

 「猿やカニ、ではなく人間だったのですか?」ジントニックを差し出しながらマスターは尋ねた。

 「ええ。昔話って地方によって違ってたりするでしょ?広く知られている蟹や猿も、とある地方に伝わった話の一つなの。私が信じてるこの話は人間の男女の話」

 女はジントニックを一口飲んでから話し続けた。「彼らが二十歳の頃、カニイが妊娠していることが分かった。でもなぜか父親が誰かはカニイは誰にも言わなかった。そして妊娠が発覚すると、カニイは別人のようになった」

 マスターは何も言わず、女の話に耳を傾けていた。

 「カニイは家に引きこもって誰にも会わなくなった。四人は心配になりしょっちゅう家を訪ねたけど、カニイは会ってくれなかった。その後四人がカニイに会えたのは一度だけ。でもその時にはもうカニイは冷たくなっていた」

 「死んだのですか?」

 「ええ。カニイは誰にも何も語ることなく自殺した。自宅で首を吊ってね」

 「自殺…ですか」

  「カニイは自殺する直前、女の子を産んでいて親戚にあずけていたんだけど、親戚一同その子の面倒を見るのは嫌がっていた。何しろ誰が父親かも分からない子だからね。それを不憫に思った幼馴染の四人は一歳になったばかりのその子を引き取ることにした」

 「合戦が起きる様子はまったくありませんね」

 「案外マスターはせっかちなのね」

 「これは失礼しました」マスターは頭を下げた。

 「もちろん話はまだ終わらないわ。物心つく前から四人に育てられていたカニイの娘はしばらく四人が本当の家族だと思っていたんだけど、大きくなるにつれ、実の家族じゃないことを知った。そりゃそうよね。家にはパパが三人、ママが一人いるわけだし。そして娘が六歳になった時、彼女は四人に尋ねた。私の本当のパパとママはどうしたの?って」

 「悲しい質問ですね」

 「そうね。四人は当然、パパは行方不明でママは自殺したんだよ、なんて言えるわけがない。自分達が本当の家族じゃないことは正直に話したけど、母親と父親は仕事で遠くに行ってることにした」

   「適切かと思います」

   「でもそんな嘘はいつかばれる。それまでカニイの死について、なるべく話さないようにしてきた四人は、事件から六年たって初めて向き合うことになった。マスター、次はマルガリータをちょうだい。私のおごりだから、マスターも飲んでね」

   「かしこまりました。ありがとうございます。私もいただきます」

  マスターが次の酒を用意してる間、女はジントニックに入っているライムをストローでつついていた。粒になったライムを口に含むと女は言った。「私、ライムって好き。苦いのか、酸っぱいのか、よく分からないところが好き」

   「私は正直苦手です。よく分からないところが苦手です」マスターは苦笑いをしながら言った。

  夜中の十二時を過ぎると、台風はさらに関東方面に近づいたようだった。地面に穴を空けるほどの勢いで雨は降り続き、モンキーアンドシザーズは地響きのような低音に包まれていた。

   「タクシーで帰るしかなさそうね」女は言った。

   「それがよろしいかと」マルガリータをコースターの上に置きながらマスターは言った。「どうぞ」

   「ありがとう」女は一口飲んだ。「ここで飲むと他の店でお酒が飲めなくなりそう」

   「恐縮です」

   「マスター、家族は?」

   「お恥ずかしい話ですが、独り身です」

   「そうなの?こんな素敵な男性をほっとくなんて世の女性は見る目がないのね」

   「いえいえ。私なんてただのしがないバーテンダーです」

   「家族を作りたいと思ったことはないの?」

   「独り身に慣れ過ぎたのかもしれません」

   「寂しくない?」

   「どうでしょうか。この生活が長すぎて自分ではよく分からなくなってしまいました」

   「確かウサギだったかしら。寂しいと死んじゃう動物」

   「ええ、ウサギです。でもあれは環境の変化によるストレスが原因だと聞いたことがあります」

   「私、あると思うな。寂しくて死んじゃうってこと。うん、絶対にあると思う」女はくるくるとグラスを回しながら言った。

   「そうですね。あるかもしれません」マスターはバーボンを一口飲んだ。

   「どこまで話したっけ?」

   「四人が過去の事件に初めて向き合ったという場面です」

   「ああ、そっか。そこか」女はマルガリータをじっと見つめた。「昔話やおとぎ話って意外と残酷なものあるの知ってる?」

   「そういった見方もあるというのは存じております」

   「見方…そうね、一つの見方というだけの話かもしれない。ただその見方がその人にとっては真実になる」

   「おっしゃるとおりです」

  女は淡々とまた語り始めた。

 

 「結局、カニイはどうして自殺なんてしたんだろう?」

 重苦しい雰囲気の中、穏やかな口調でウスキが言った。それはその場にいる四人が長い間抱えていたにも関わらず口にするのを避けていた言葉だった。それでも、皆がすんなり過去と向き合うことができたのはウスキが言葉以上の意味を含めずに言ったからだった。悲劇の温度ですらやさしくゆっくりと冷ます。それはウスキの特性でもあった。

 「あの子は自殺するような子じゃなかったのに」同性ならではの二人だけの思い出があるのだろう。チュウバチは今にも泣き出しそうな声で言った。

 「俺はいまだに信じられないよ」普段は軽口を叩き、陽気なサルタもさすがに湿っぽかった。

 「でもあの子にはいずれ話さなくちゃいけない」グループでは常にリーダーとして頼られてきたクリヤマが言った。

 「何をどうやって伝えればいいの?仕事に行ってるっていうのは嘘で、あなたのパパは誰か分からない。ママは自殺したのよって?そんなこと言えるわけないじゃない」とチュウバチが言った。

 ウスキが間髪入れずに言った。「それはそうだよ。例え彼女が大きくなっても残酷すぎる」

 「俺達だって何も知らないしな」とサルタが言った。

 「みんなあれからあの事件のこと調べたりしたか?」クリヤマは三人を眺めながら言ったが、三人とも首を横にふっていた。「六年間もみんな心の奥に閉じ込めてたってわけか」

 「しょうがないじゃない。遺書無し。自殺の証拠あり。理由なんて誰にも分からない。彼女は何も言わずいなくなった。私達の誰にも何も言わず…」チュウバチの目は少しうるんでいた。

 「でもさ、娘を残して死ぬっていうのはよほどのことだよ。何かあったのは間違いないよ」ウスキが言った。

 「そんなことは分かってる。あいつは誰にも言えない大きなものを抱えてたんだ」サルタの目にも涙があふれていた。

 「みんな、感傷的になるのはよそう。問題は実の両親のことを何も知らないあの子だ。あの子の成長を俺達は責任もって見守らなきゃいけない」

 クリヤマがそう言っても三人は目を伏せながら、過去の悲劇を振り返っていた。今まで押しとどめていた濁流は一度決壊するともう止めることはできなかった。各々は無言のまま、なすすべもなく悲しい過去に身を流されていた。

 「俺はやっぱり父親を探すべきだと思う」沈黙を破りクリヤマは言った。「今まではこれでよかったと思う。でももうこのままじゃいられない。あの子は本当の両親のことを知りたがっている」

 「探すってどうやって?」とチュウバチは言った。

 「方法は分からない。けど、何か手がかりはあるはずだ」

 「あれから六年だよ?手がかりなんて…」困りながらウスキは言った。

 「そうだよ。今さら探すなんて無理だ。だいたい六年も放置してるような男だ。もしいたとしてもろくな奴じゃない」サルタが言った。

 「でも探すのは俺達の義務だと思う。もちろん今後も俺達があの子を育てるのは変わらないけど、せめて生きてるのか死んでるのか、その確認くらいはしないと」

 「いっそのこと死んだことにした方がいいんじゃないの?」

 チュウバチのその言葉は一度は皆が考えたことでもあった。

 「俺もそれがいいと思う」サルタは同意したが、ウスキは黙って考えていた。

 クリヤマはその意見に反論した。「例えどんな父親だって血が繋がってるんだ。何も知らないのに嘘を上塗りしていくのは間違ってるよ。母親はもう亡くなってる。それは事実だ。でも父親は違う。どこかにいるかもしれないんだ。それを知る権利が彼女にはある。残酷な真実とやさしい嘘。みんなはやさしい嘘を選ぶのか?」

 誰も何も言えなかった。どちらにせよ、六歳の少女にはあまりに重い現実なのだ。

 「俺は一人でも真実を探す。あの子は真実を知りたがっている。なら真実を探して伝えるのも、義理の親の俺達のやるべきことだ」

 「あの子が傷ついても?立ち直れないくらいの傷を負っても?」とチュウバチは言った。横でサルタもうなずいた。

 「辛いけど、クリハラの言うことに一理あるかもしれない。知りたいなら教えるべきかもしれない。あの子は賢くて強い子だよ。俺達がきちんと支えてあげればきっと乗り越えてくれるよ」ウスキが言った。

 「もし乗り越えられなかったら?一生の傷になったら?私達だけで支えられなかったらどうするの?真実なんてもうどうでもいいよ!」目を真っ赤にしながらチュウバチが言った。

 「落ち着けよ。俺達が言い合ったってしょうがない。分かった。じゃあこうしよう。父親は探す。彼女に真実を伝えるかどうかはそれからまた考えよう」

 

 「そうして四人は父親を探すことになったの」いつの間にかマルガリータはなくなっていた。「マスター、同じ物を」

 「かしこまりました」新しいグラスを用意しながらマスターは言った。「これが猿カニ合戦ですか。まるで現代映画のようですね」

 「ええ。そうね。ねえ、マスター。マスターが四人のうち誰かだったらどうする?父親を探す?探さない?」

 「難しい質問ですね」テキーラをグラスに注ぎながらマスターは言った。「きっと私なら探しません」

 「どうして?」

 「知らなくてもいいことはあるかと」

 「実の両親のことでも?」

 「はい」

 「私なら探す。母親の自殺のことも全部伝えると思う」

 「あまりに辛い真実ですが…」

 「子供には全てを知る権利がある」

 「それは確かにそうですが」

 「そして大人が考えるよりも子供は賢い」

 「はい」

 マスターがマルガリータを作り終え、女の前に置くと、彼女はそれをじっと見つめた。だが、見ているのはどうやらマルガリータではなかった。

 「話を続けましょう」

 

 他の三人が消極的でもクリヤマだけは父親を積極的に探し続けた。少しでも手がかりになればとカニイの親戚宅にも行った。過去の事件の資料もできる限り調べた。しかし、それは完全な徒労で終わった。父親の痕跡は一切見つからず、母親が自殺した確かな証拠だけが残っていた。四人は何も得られないまま時間だけが過ぎ、そんな中でも娘は明るく健やかに成長していった。あれ以来実の両親のことをなぜか娘は一言も口にしなかった。義理の家族と分かっていても屈託なく過ごすそのけなげな様子は、父親捜しをさらに消極的にさせた。

 娘は十歳になった。母親に似て目鼻立ちが整っていて美しかった。勉強も運動も周りの誰よりもできた。クリヤマでさえも、このままでいいのではないか、と思ってしまうほど、義理の家族は幸せに包まれていた。

 そんな中、サルタの死体が発見された。

 

 「え?」マスターは飲みかけのバーボングラスを宙で止めたまま言った。「死体?」

 「そう。サルタは死んだ」女は四杯目の酒をまだ一口も飲んでいなかった。

 「申し訳ございません。取り乱しました」

 「衝撃の展開よね。でも事実。何の前触れもなくサルタは死んだ。死体は皆が住んでいる自宅で発見された。胸をナイフで一突き、即死だった」

 「理解に苦しみます」マスターは一口バーボンを飲んだ。

 「自殺か?他殺か?外部の犯行か?内部の犯行か?」女は少し間を置いてから言った。「そんなことを考える間もなく、犯人はあっさり見つかった」

 「お客様。少し待っていただいてよろしいでしょうか。心の準備が必要です」そう言ってマスターは深呼吸した。

 「マスター。こういう血なまぐさいの苦手なの?」

 「得意なかたが奇特なのかと」

 「母性本能くすぐるタイプね」

 「ご冗談を」

  時計の針は一時を指していた。いつの間にか、地響きのような豪雨は止んでいた。「台風の時って一瞬だけきれいに晴れたりするのよね。この束の間の静けさって妙に寂しいと思わない?ウサギなら死んじゃうかも」

 「かもしれません」

 女は小さなため息をつき、間髪入れずに言った。「犯人は娘だった」

 マスターは天井を見上げながら大きなため息をついた。

 「娘が自首したの。私がパパを殺しましたって」

 「パパ?」

 「ええ」

 「ということは、実の父親はサルタさんだったのですか?」

 女はマルガリータを飲み、タバコに火をつけた。「と、すんなりまとまる話じゃないのよ」

 「と言いますと?」

 「マスター、興味津々ね。このまま私が帰ったら、今夜眠れないんじゃない?」と女は笑いながら言った。

 「眠れませんね」とマスターも笑って言った。

 「一つ問題があるの。そのパパという言葉が実のパパと義理のパパ、どちらを指してるのか分からなかったということ」

 「どういうことでしょう?」

 「サルタが実の父親だったなんて他の三人ですら考えたこともなかった。彼女がサルタを実の父親だと考える根拠はまったくなかった」

 「それは後々彼女に聞けば分かるのでは?」

 「それができなかったのよ」

 「なぜです?」

 「彼女も死んでいたから」

 「……あの…もう一杯飲んでもいいでしょうか…自分で払いますので…」

 「気にしないで飲んで。全部私につけていいから」

 「…ありがとうございます…」

 外ではまた雨が降り出していた。強くはないが、静かに重みのある雨音だった。「また降ってきたようね」

 「…ええ…」

 「もうすぐこの話も終わりよ。マスター、もうちょっとだけ聞いてくれる?」

 「…もちろんです…申し訳ございません…話の筋がよく分からなくて…」

 「それはそうよね。私も初めて知った時、よく理解できなかったわ」

 「続きをお願いします」

 「パパを殺したというのは遺書に書いてあったの。つまり彼女も母親と同様自殺したの」

 「十歳の少女がですか?」

 「ええ。むごい話よね。どうやら彼女がサルタを殺したのは間違いないみたいだけど、動機が分からない」

 「一体どういうことでしょう?」

 「遺書には正確にはこう書いてあった。私がママとパパを殺しました。その罪を私は償います」

 「カニイさんは自殺ですよね?」

 「ええ」

 「サルタさんが父親で…なんらかの理由でそれを知って…母親を自殺に追い込んだのがサルタさんで…その復讐…とかですか?」

 「そう思う?」

 「そうとしか考えられません」

 「でも調べる方法はない」

 「DNA鑑定はいかがですか?」

 「マスター、忘れてるかもしれないけど、これ昔話よ。そんな科学技術あるわけないでしょ」笑いながら女は言った。

 「そうですね…でも謎が多すぎます…」

 「そんなマスターの謎を解いてくれるかもしれないのがあの三人」

 「解いてくれますか!?」

 「当然、あまりの事態に残された三人は混乱した。マスターと同じようにサルタが父親なのかと三人も考えた」

 「そうですよね」

 「過去を振り返ると、確かにカニイとサルタは仲はよかった。でもそれだけ。根拠は何もない」

 「そうですか…」

 「そしてサルタの死の謎」

 「はい」

 「遺書どおり娘がやったのか?でも娘はサルタより前に死んでいる。じゃあサルタを殺したのは誰なのか?そもそも娘が言うパパは誰を指しているのか?さらにママも殺したとはどういう意味なのか?」

 少し間をおいてから女は言った。「三人にもお手上げ。解決できず。謎は謎のまま。これにて猿カニ合戦は幕を下ろしましたとさ」

 「…そんな…ひどい…」

 「これ別にサスペンスじゃないから。DNAも指紋も鑑定技術なんてない時代に作られた昔話。それを名探偵が解決するわけじゃないのよ」

 「それはそうですが…私にはまったく理解できない昔話です。いろいろと腑に落ちません」深くため息をつきながらマスターは言った。

 「まあ、昔話なんて理路整然としてるものの方が少ないでしょ?考えてみれば妙な話がたくさんあるのよ」

 「そういうものでしょうか…」

 「あら、マスター、ずいぶん元気なくなっちゃったのね」

 「…ええ…正直滅入りました。私が知ってる猿カニ合戦の方が安心します」

 「そう?私はそうは思わないな」

 「と言いますと?」

 「母親が殺されたから復讐する。復讐が成功して万歳万歳。これ安心する?」 

 女の声にはほんの少しそれまでなかった低音が紛れていた。

 「そう言われますとなんとも…」

 「確かにこの話、ものすごく謎のままで終わってる。言ってしまえば投げっぱなしね。私も気になって調べたんだけど、どこをどう読んでも謎を解明する記述は一切なかった。ほんのちょっとの伏線もないのよ。何の前触れもなく、悲劇が繰り返される。それで私思ったの。これを作った人は誰が犯人とか事件の真相とか、そんなことを語りたかったんじゃないんだろうなって」

 「どういうことですか?」

 「昔話の根幹は教訓なのよ」

 「ではこの謎の昔話にはどのような教訓があるのでしょう?」

 女はカウンターに一万円札を置いた。「きっと寂しくて死ぬのはウサギだけじゃないってことよ」女は腕時計を見ながら言った。「あら。もう一時過ぎてるのね。そろそろおいとまするわ」

 「今お釣りを用意しますので少々おまちください」

 「いらないわ。こんな夜中にマスターの元気奪っちゃったから。そのお礼」帰り支度をしながら女は言った。「壊れた傘捨ててもらっていいかしら」

 「かしこまりました。では新しい傘お持ちください。今持ってきます」

 「傘もいらないわ。すぐタクシー拾うから」

 「しかし、まだ雨が…」

 「いいの」

 「今夜はいろいろとありがとうございました。ごちそうにもなって、チップまでいただいて」マスターは頭を深々と下げた。

 「釈然としない物語も聞かされて?」

 女はいたずらっぽく笑った。女の化粧は少し崩れていた。

 「大変考えさせられた昔話でした。今夜はどうもありがとうございました。またぜひお待ちしております」

 「そうね。また来るわ。台風の日に。じゃないと、マスターとこんなにお話できないから」

 「お待ちしております」

 女は店の入り口に歩いていき、ふと足を止めた。

 「そうそう。大事なこと一つ言い忘れた。この昔話のエピローグ」

 「なんでしょう」

 「残されたクリヤマ、ウスキ、チュウバチの三人はその後も三人で仲良く暮らしたのよ」

 「そうでしたか」

 「謎ばかりの悲しい話だけど、最後まで読んで私、この話が好きになったの」

 そう言って女は店から出て行った。

 

 「モンキーアンドシザーズ」では微かな雨音と沈黙の音だけが残っていた。マスターは後片付けをしながら、今聞いた妙な昔話を思い出していた。頭の中で人物相関図を描き、改めて事件の解明を試みた。しかしどう考えても答えはでなかった。これは出口のない迷路だ、とマスターは思った。その迷路の壁には、見たことのない少女と五人の男女の写真、少女と男女二人の死についての膨大なレポート、名前も顔分からず何の情報開示もされていない男の捜索願いなどが貼ってあった。それを注意深く眺めながらマスターは迷路を歩いていた。 

 そしてふとこの行為自体にはまったく意味がないことをマスターは悟った。この壁には結果だけが羅列されている。それを眺めて歩いてもここでは何も見つからない。きっとここに飾るべきものは違う物なのだ。

 外ではまた雨は止んでいた。マスターはそれまで女が座っていた椅子に腰を下ろした。

 「ウサギが寂しくて死ぬのは本当なのかもしれない」誰かに向けて言ったわけではないが、マスターのその独り言は誰かに伝えるような響きを持っていた。

 

 

 share 

  • Facebook Social Icon
  • Google+ Social Icon
  • Instagram - White Circle
  • Twitter Social Icon
  • Vimeo - White Circle
  • YouTube Social  Icon
  • MySpace - White Circle

​お問い合わせはこちらから

© 2016 by Team Nishinomori