- ゆっきー監督
ゆっきー監督のサブカルチャー談義5
今回紹介するのは、僕にとって原点であり、永遠のバイブルでもある作品です。

幾度なく読んだおかげで、今ではもうボロボロになってますが。
これほどメジャー作品でありながらもサブカルチャーである作品は二つとないでしょう。
フランツカフカの「変身」です。
いつ誰が書いたのか、どんな内容なのか?そんなことは全く知らなくても、たった一つの事実だけはあまりに有名ですね。
起きたら虫になっていた。
まるで、この一文だけが世界中を勝手に歩き回っていると思えるほど、有名です。
フランツカフカ。チェコ、プラハの作家1883年生まれ。
この変身は1912年の執筆、1915年に出版されました。
つまりカフカ29才の作品です。そしてこのあたりの年齢で、「判決」「城」など、今ではもはや伝説になっている多数の作品を書いています。残念ながら未完も多いのですが。
このカフカという人は今の日本でいうところの半公務員でした。
いわゆる職業作家、という立場にはなっていません。午前中は公務員の仕事、午後から執筆、という生活をただひたすらに過ごした人物です。後年はほぼ、療養でしたが。
カフカの作品が生前出版されたのは、そこまで多くはありません。
ではどうして僕らが今多数のカフカ作品を読めるのか?
それはマックスブロートという人がカフカの遺言を無視して出版したからです。マックスブロートは文学的な意味でも、カフカと精神的に繋がりが深かった友人です。
簡単に言えばカフカの作品があまりにも素晴らしかったため、マックスブロート(彼もアーティスト)が勝手に出版し、今に至るわけです(もちろんカフカ死後の版権は彼が持っていました)
サンキューマックス。
と言いたいところですが、ブロート自身もアーティストなのに、カフカの友人という伝説のイメージになってしまっているのは、残念な話でもあります。
生前出版されたものや仕事なども、ほとんどが、このブロートのおかげです。
カフカという人間は、あまり処世術があまりうまくなかったようです。
文献を調べていくと、ほぼ、人生における転機には、大切な人達の助力あって切り抜けています。
なにより本当の意味で病弱でした。実際41才という若さで結核でカフカは亡くなっています。
変身もそうですが、カフカ作品にはだいたい、なぜか暗い影が付きまとっています。
カフカの七不思議の一つでもあるのですが、冷静な文体の中に「コメディ」と「闇」が完全に同居しています。
現代、カフカを呼んでいる人達は、この陰の部分だけを切り取って「カフカ作品は暗い」と言っている人もたくさんいるのですが、これは断言できます。誤りです。
どことなく太宰治もこうした作品イメージがありますが、太宰はカフカと違って、生きざまが破天荒ですからね笑。似て非なるものです。好きですけど。
カフカにはとびっきりのコメディも確固としてあります。
カフカがカフカたるゆえんはこの「コメディ」と「闇」がどの作品にも必ずあり、妙なことに、悲しい部分も笑え、笑える部分も悲しい、という逆説が常に成立していることでしょう。
変身をどう捉えるかはもちろん読者にお任せで、答えはカフカにしか分からないのですが、考えてもみてください。
朝起きたら虫になっていた自分が、ですよ。
「あれ?おかしいな?虫になってるよ。なんか気持ち悪いなあ。まあ、とりあえずはもうひと眠りするか」という感じです。
さらに、普段は右を下に寝る癖があったので、そうしようとしたら、虫だからどうしても仰向けになってしまう。がんばっていつもの体勢で寝ようとしたら、脇腹に経験したことがない鈍痛を感じたので、右を下にして寝る努力はあきらめた。
朝起きたら虫になっている男がですよ?寝る姿勢を追及している場合ではありません。
その直後仰向けになりながら、「ったくなんでうちの会社はあんなに忙しいんだ!?やってらんないよ!」
と文句を言う始末。
この人(虫)一体何をしているんでしょうね笑。
この有様が、過大な演出をすることなく、冷静な文体で綴られています。現代的ドラマ演出なんて一切ありません。
その後しばらく布団から出る為の格闘が描写されています。しかも文句を言っていた仕事に行く為にです。
僕が初めてこれを読んだのは高校三年の夏です。
僕はそれまでアーティスティックなことには一切興味がありませんでした。
まだ音楽もやっていません。本も書いてなければ、映画だってそんなに見ていない時期です。
ごく普通の受験を控える高校生でした。自分で言うのもなんですが、成績はけっこう良く、大学もなかなか名の知れた大学に行くつもりで勉強していました。
そんな時気分転換に、と友人宅で発見した変身を拝借し、読んでみました。
嘘ではなく、これを読んだ直後に「今の僕」が誕生しました。
その後、受験勉強は一切止め、親にも大学には行かないと宣言し、僕は作家を目指すようになったのです。(正確に言えば実はもう一冊の影響もありますが)
まだインターネットなんてない時代です。
それからはひたすら本屋に通って、フランツカフカを調べ、読み、真似て、書きました。
僕の人生を狂わせた一冊といっても良いでしょう笑。
それまで読んだ本や、知っている知識、世界観を粉々に壊すほど、この変身は強烈でした。
物語の結論以上に作品全体に意味があるということ、ゴールまで行ったのに終わらない物語。こんな経験をしたのは初めてでした。
これすなわち、後のサブカルチャーやカウンターカルチャーの根底になっていくわけですが、それらはこの変身に大きく影響されています。
そして僕自身の今の「カルチャー観」の根幹とも言えるものです。
分かりやすく言えば、現代の、特に日本で流行っているようなメジャーカルチャーとは別物です。
一つのレールの上を歩くことを好きな人間は多分いないでしょう。
でも我々の日本は文化発信において優しすぎました。レールだけは確保してくれるのです。歩くか歩かないかは本人の自由、といういわば保険がある作品をこの国は独自で開発し発信してしまいました。
日本で売れる「メジャー」と呼ばれている作品は、必ずこの「保険ありきの工程」で作られています。必ずです。スポンサーがつき、企業イメージを背負っているメジャー契約アーティストは絶対に自分の好きなことはやれません。企画自体が通りません。当然です。その作品一つに、数千人、数万人の社員の生活がかかっているのですから。
例えばですが、製薬会社がスポンサーで、クスリを飲んで副作用が起きて死んでしまった人の物語、なんて書いたら、本気で殴られます。殴られるだけならいいかもしれませんね。永遠にメジャーで作品を作る機会を失うでしょう。
まあ、これは日本に限った話ではありませんが。
ただ聞いたところによると、海外のスポンサーは制作にはあまり口出ししない傾向がある、という話をきいたことがあるので、日本が特に敏感というのは間違いなさそうです。
それら保険がある作品(毒にはならず薬にはなれる作品)を産業として追求した結果、保険を作らない作品(個人趣向が強い作品)はアンダーグラウンドに押しやられてしまいました。やりたいようにやるなら「インディーズ」でやりなさい、というわけですね。
インディーズ、というと、好き勝手やっている無名のアングラ軍団、というイメージですが、そもそもこれは日本だけです。
アメリカ映画ではメジャー三大企業の映画以外は全てインディーズと呼ばれます。
メジャー、インディーズを「知名度」で測って妙な一線を作っているのはこの国だけなのです。
僕がまだ20才くらいでとがっていた頃、「安易なテレビドラマばかり見て、こうした本物を読まないとおまえ達はどんどん頭が悪くなるぞ!」とよく周囲に言っていたものです苦笑。
嫌な文学青年でしたね笑。
メジャーやインディーズという分厚い壁を作ってしまった日本は、その後やってきた「ネット社会」に翻弄されているのは、皆さんもご存じでしょう。
民放は売れず、全てはネット起点になっています。テレビや広告だけでメジャーという幻想を作り一世を風靡した人達は今、自分達がやってきたずさんなカルチャー発信によって自分達の首をしめている真っ最中です。
今ではもうインディーズという言葉自体も形骸化しています。インターネットで突然名が知れる人がいるくらいですから。
話を戻しましょう。
カフカ以降、カフカ以前と線引きされてもいいほど、その後の文学界は大きく変化し、それとともに他芸術も変化していきました。
日本で言えば、無名のインディーズ作家がたくさんのメジャーアーティスト(様々なジャンルの)に愛されているようなものです。
つまり今でいう産業的な意味でのメジャー、作品創作という意味でのインディーズの間にある壁を完全にすり抜け、完璧に行き来した世界最初の男
それがフランツカフカだと僕は思っています。
残念ながら死後の話ですが。本人は公務員ですから…。
あくまで後世の作品が、です。
死んだ後にそんなことになっても…という談義はまたいずれ。
僕が好きなアーティストは、影響されたアーティストにやはり必ず「カフカ」の名前を挙げます。マルケスもデビッドリンチもそうです。
カフカイズムはこうして現代にも受け継がれてきたのです。
41才という若さで結核でなくなった孤高の作家。
と言えばかっこうもつきますが、カフカは精神的な意味では究極なほど孤高でしたが、僕のイメージでは現実生活ではそんなに気難しい人ではありません。
人たらし、と僕は見ています。公務員の仕事もそれはもう立派にやっていたそうです。「僕には文学だけが全てだ!」といいながらも、です。
そしてカフカを語るには、必要不可欠な女性達。実際彼はモテモテです。時代性もありますが、彼の婚約回数、破棄回数は普通ではありません。
有名な手紙の一言です。
「君なしではいられないが、君とともにも生きられない」
フランツカフカの誠実性を物語る一文です。本当に美しい言葉です。
カフカは、作品以上に文章を書いていました。手紙や日記、アフォリズムなど、その量、辞書数冊分にもなるでしょう。
ありがたいことに(本人には迷惑でしょうが)それらの文献も今では容易に手に入れることができます。
市販されている限り、全ての著書を買い読みましたが、それらを読んで作品以上に僕はこの人が好きになりました。
難解で意味深なものも多く、火傷するようなものも多いですが、はっとするもの、脳と心に栄養をくれるものばかりです。
変身は文庫にして100ページほどの中編で、カフカ入門にはうってつけの作品です。他の短編も本当に素晴らしいです。
判決や断食芸人、流刑地にて、なども個人的にはおススメです。あ、判決は入門にはならないかな笑。
「審判」「城」の二作品だけは免疫を付けてから読むことをおススメします。この二つだけは長い文学史においても特に危険物です。初心者は絶対に触れてはいけません。多分三日と読めません。
先日挙げた「百年の孤独」からはかなりこの二作品を感じましたが…実際はどうなのでしょうね?
僕が買った時この変身はまだ280円でした。今ではいくらになっているか分かりませんが、多分400円もしないでしょう。古本なら100円で買えるかもしれません。
新冊でも、コンビニでパン2個買うのとさほど値段は変わりません。
そう考えると、作品の価値とは、本当に金銭には代えられないものです。
フランツカフカの変身。ご愛読いただければ僕も嬉しいです。