• ゆっきー監督

ゆっきー監督のサブカルチャー談義 番外編

最終更新: 2018年7月29日

お久しぶりになってしまいました。


監督のゆっきーです。


実は他者様のサイトでこの「サブカル談義」を掲載していたのですが…


いわゆる大人の事情で戻ってまいりました笑。


突然ですがみなさん気付いているでしょうか?


実は現在のインターネットにおける「コラム」はある1つの鉄のルールが存在するのです。


いわゆる「SEO対策」と呼ばれるもので、構成の形がほぼ決まっているのです。


大見出し→中見出し→小見出し


と綺麗に目次が分かれているはずです。


初めから読んでいけば最後には必ず段階的に理解できる構成になっていて、これはどんな会社、どんなサイトでもほぼ同じです。


例えば僕が前回書いたポールトーマスアンダーソン監督の「マグノリア」ですが、これをネット用コラムに当てはめて書くと…


1 マグノリアとは?


ポールトーマスアンダーソンとは?

「………」


生年月日は?

「………」


過去の作品は?

「………」


2 マグノリアに込められた意味とは?


エンディングは宗教的?

「………」


群像劇の理由は?

「………」


3 まとめ

いかがだったでしょうか?これであなたもマグノリアという作品に肉薄したはずです。ぜひ一度視聴してみましょう!



といった構成になります。


はっきりいってその文章を一読すれば映画を見なくても「なんとなく全容が分かってしまう」ような体裁をとっているのですね。


これは読んでいる人達にとってはとてもお手軽に理解できる構成になっています。


情報社会でスピードが求められる今、時代的に必要な措置ともいえるでしょう。


ただしこれには弱点があります。


コラムではなく情報記事っぽくなってしまうということです。


コラムの面白さはやはり主義主張です。情報の羅列なら新聞でも読めばいいのです。


なぜそのコラムを書くのか?


本人が書きたいから?


読んでもらいたいから?


どちらもですよね。


このバランスがとても難しくて、一歩間違えば自慰行為になり、一歩間違えばチープで浅はかな作品になる


…というのが通説です。


でも個人的結論としては一言で終わります。


「自慰行為?けっこうけっこう」


と。


自慰かどうかは結果論です。後世が決めることです。


チープなものは結果の前にすでにチープです。


ダーウィンもアインシュタインも当時の研究は単なる自慰行為ですよ。


そういうことです。手の平返しで、自慰行為は偉大な一歩にもなりえるということです。


コラムと情報記事は全くの別物ですが、その線引きが曖昧になっているのは「皆さんに読んでもらいからSEO対策をした結果」なのです。


例えて言うなら「ウィキペディア」を読むだけで全て分かった気になってしまうような、そんな危機感が常にあるのが現在のインターネットコラム界といえるでしょう。


ウィキペディアは知識を与えるものであって智恵を与えてくれるわけではありません。


僕は決してその形(情報メインのコラム)を否定してるわけではありませんが、やはり「文章に色気がない」と自分で書いていて感じてしまいました。


僕はみなさんに知識を与えたいわけではありません。


智恵を共有したいのです。


映画もコラムもそうですが、僕達作り手と視聴者や読者の関係はやはりイーブンでなければいけないと僕は常に思っています。


読んでもらいたいから分かりやすく作る、という意識は必須ですが、だからテンプレートを採用し敷居を低く設けるのは、やはり不本意と言わざるをえません。


「どうしてこういう形なんですか?」


「周りもそうだからです。今時の常識ですから形は最低限なぞってください。じゃなきゃ誰も見ませんよ」


つまりこれが「掟」です。


決して僕が他社様に掟を強制されたわけでも、ケンカ別れしたわけでもありません。映像の仕事が忙しくなったのが一番の理由ですが、正直僕が相対的にコラムの在り方について、色々感じてしまいやはり自分の庭で書くのがベスト、と思ったことも事実です。


お金をもらって書いている以上、クライアントの意向には応えなければいけないので、いくつか書きましたが…段階的な理解を促すという作業がどうやら僕には不向きだったようです。


ノーベル文学賞を受賞したロックンローラー「ボブディラン」の自伝がとてもいい例です。


自伝ですから、本来時系列に沿って書くのが当然ですが、ディランの自伝には時系列どころか、時間という概念もありません。まとめ的エンディングもありません。


突然どこかのシーンを語りだします。と思えば次のシーンは全く関係ない話になっています。かつてあった事実がどこかふわふわとしたフィクションにも感じられる自伝です。


これは既存の自伝的構成を全て無視してディランが自慰的に書いた結果です。


よく分からないからこそ僕は真剣に読みました。


振り落とされないように


ついていけるように


読者の僕も必死です。ディランの自伝はとても片手間で読める作品ではありませんから。


こういう関係性が僕は好きなんですね。いずれここでもこの自伝について談義したいと思います。


そしてこの緊張感こそが「関係がイーブン」ということになると僕は思っております。


読者のニーズに応えるというのはもちろんプロの仕事ですから、僕もその意識を持っております。少しでもみなさんに楽しんでほしいといつも思って作品を作っています。


だからといってみなさんに合わせて敷居を下げるということは絶対にしません。


敷居を下げるアーティストというのは言葉は悪いですが「どうせ君たちはセンスがなくて答えが分からないんだから、せめてヒントあげるね」というクイズの出題者みたいなものです。


読者や視聴者をなめているな、と思うのは僕だけでしょうか?


そんな風潮に一石を投じるのも我々チーム西の森の仕事です。


僕は敷居は絶対に下げません。


その代わり間口を広げます。


これは山と登山家の関係に似ているかもしれませんね。


富士山を登り始めること自体は難しくありません。


でも登頂は困難です。


良い景色が見たいなら登るしかないのです。


でも富士山の標高は常に変わりません。


だからこそ猛者が挑戦する意味があるのでしょう。


僕はアーティストとして富士山でありたいし、富士山のてっぺんを目指す登山家でありたいと思っております。


賛同してくれる人はたくさんいます。


つまらないありがちで些細な日常をぶっとばしたい人達はいつの時代もいるものです。


今回はコラムを書く人間として、原点に立ち戻ったという番外編でございました。


次回の「ゆっきー監督のサブカルチャー談義10」は、敬愛する作家サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」を談義します。


バナナフィッシュはカフカの変身と並び、僕に大きな大きな影響を与えた作品です。


ではまた次回にお会いしましょう。




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